1988〜DAYS JAPANとその時代

DAYS JAPANというフォトジャーナリズム誌をご存知の方も少なからずいると思うが、
かつては’80年代終わりの頃に講談社からサラリーマン向けに出されていた月刊誌だっ
た。
ちょうどバブル真っ盛りの時代。その頃ぼくはサラリーマンでデザイン企画の部署にい
た。やりもしないゴルフのウェアやたまにはやるけど全然熱心ではないスキーのウェア
なんかを企画しながら、全国で急増するゴルフ場やスキー場の開発のその片棒を担いで
いるような罪悪感をだんだん憶え始めていた。それでもこれが仕事なんだと納得させて、
シーズンの先々を予測する流行という実体のないものに追われる日々を送っていた。
また、それでいながらバブル時代の夜遊び文化?には熱心で、出来始めたクラブイベン
トやおしゃれなバーで夜な夜な朝まで遊んでいた。
でもそんな時代でもまだ、ジョン(レノン)の存在やボブ(マーレイ)の歌はリアルに
身近にあったし、グレイトフル・デッドをかじり始めたり、インディアンの本やビート
のケルアックやギンズバーグを読み漁ったりと、自然破壊や夜遊びの罪悪感の反動から
か、そっちのアンテナも少しづつ伸びていた気もする。そんな時、決定的に重大な事と
して起きたのが1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故だった。
1979年に起きたアメリカのスリーマイル島原発事故のことも当時ニュースとしては届
いていたが、これに関してはそのことを訴えるジャクソン・ブラウンやドゥービー・
ブラザース、ブルース・スプリングスティーンなどが集まって開かれたNO NUKESコン
サートの2枚組レコードの方に関心があって、肝心の原発の危険性にはそれほど心配が
及んでいた訳ではなかった。でも、当時のアメリカのそうそうたるミュージシャンが集
まって原子力発電への危険性を訴える大規模なコンサートを即座に開くあたり、さすが!
ウッドストック時代からの伝統が生きているなぁ〜と、うらやましささえ感じたもんだ。
いまから思うといかに原発のメルトダウン事故が恐ろしいか、と理解できるんだけど。
(このNO NUKESコンサートの2枚組レコードはCD化されていて、先日ぼくも手に入
れました!いま聴いてもスゴくいいです!)
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でも、それ以降、原発の危険性を告発する書籍が書店に並びはじめ、いまもよく耳にす
る、それほど原発が安全なら東京に造ればいいじゃないか、という言葉の元となった
瀬隆
「東京に原発を!」などが出版されたりしていた。
しかし、このチェルノブイリ原発事故のニュースは少しづつ、その全容が判るにつれ
事態の重大さは計り知れないものとなり、当時カフェバーやDISCOマハラジャに代表
されるような浮かれたバブルニッポンの乱痴気騒ぎに冷や水を浴びさせただけではな
く、聖書の黙示録で語られる「にがよもぎ(チェルノブイリはロシア語でニガヨモギ
だとされる)」をも連想させて、世紀末に向かう人類の滅亡やハルマゲドンなど、終
末予言までが、その現実味を帯びさせた。
またチェルノブイリ原発事故の影響はもちろん日本一国だけのことではなく、結果と
してソ連邦が解体し、ベルリンの壁に象徴される東西冷戦の終わりを早めたとも言わ
れている。
まあ、そんな危険な原発が当時ニッポンでも既に30数基稼働中だったから、以降、
堰を切ったようにそれら原発に関する書籍が書店で平積みされ、その頃広瀬隆が出し
た「危険な話」などは子供を持つお母さんたちにも広く読まれ、広瀬現象なるものま
で生み出して反原発ブームとさえ呼ばれるようになった。
そりゃあ、母乳からチェルノブイリ事故の放射能が検出されたりもしたんだからね!
もう完全にバブルなんかで浮かれてる場合ではなくなった!
そんな時代を背景に生まれたのが、先にも紹介した忌野清志郎の発禁アルバムCOVERS
「サマータイム・ブルース」であり、

そして1988年4月に創刊されたこのDAYS JAPAN誌。
これに掲載されていたのが、広瀬隆であり、そして現DAYS JAPAN編集長の広河隆一
の一連のチェルノブイリ、スリーマイル島、ウィンズケール、青森県六ヶ所村での放射
能汚染の危険性を伝える記事だった。
当時のDAYS JAPANは、それこそ講談社から出されていた雑誌だったから、小さな書
店でも、たぶん地方の本屋さんでも置いてあったと思う。だから手にした人は結構いた
んじゃないかな〜? ぼくも毎号とまでもいかなくても結構マメに買っていて、真面目
に読んでいたし、いまでも全部実家に置いてあるハズだ。
またその同じ年’88年の夏に八ヶ岳で行われた「NO NUKES ONE LOVE いのちの祭り」
に巡り合って、そこでその頃関心が芽生えていた環境問題やソフトエネルギーや脱ゲン
パツやインディアンやアイヌやオキナワ、先住民や少数民族文化など、、いわゆるオル
タナティブな世界、バブルに象徴される生き方とは違う、もう一つの生き方に出会った。
そして同じ頃広島から出発して各地の原発や六カ所村を巡り、最終北海道の放射性廃棄
物施設候補地の幌延まで走るインディアンたちの祈りのランニング「SACRED RUN」
が行われていた。その提唱者でアメリカン・インディアン運動(A I M)の指導者でも
あるデニス・バンクスや今はもうこの世にいないフロイド”レッド・クロウ”ウェスター
マンやホピの予言のメッセンジャー、トーマス・バンヤッケ翁にもここ「いのちの祭
り」で出会った。
いま振り返ると、この頃の出会いと気づきが僕自身の生き方に大きく影響し、いまに至
る旅のきっかけになっていると良く判る。
そんな時代の中、このメジャーだけれども、大きく現代の文明にまで警告を発していた
ような記事の詰まった毎号届けられるDAYS JAPANはぼくの曇った目を開き、現代社
会に、そして世界に大きく意識を広げてくれたと思っている。
そして、いままでの日常がだんだん息苦しく思えてくる中、それでもなんとか意識は社
会や地球と繋がっていようとこの雑誌を毎月愛読していたんだが、’80年代の終わり頃に
出た号で突然!DAYS JAPANは廃刊してしまった。
その2ヶ月前の号に載ったアグネス・チャンの講演料が事実と違う、という理由で謝罪が
あり、これが社会的な信用を損なったとして休刊する、と説明があったが、その同じ号に
掲載されたアメリカ・インディアンの聖地から日本の電力会社がウランを購入する契約を
したとする記事が実際の原因なんだ、と後にぼくらの耳には入ってきた。
そしていよいよ世紀末ラストの10年を迎えようとする1990年、インディアンたちの祈り
のランニングSACRED RUNが初めてロンドン〜モスクワ間のヨーロッパ大陸を走ること
となり、それをオーガナイズする事務局が大阪にできた。そこで初めてオーガナイザーで
あるダコタインディアンの詩人でA I Mリーダーでもあるトム・ラブランクと出会った。
そのトムから各部族の特徴的なデザインが施されたSACRED RUNヨーロッパ用のランニ
ングウェアを創って欲しいと頼まれて、友人たちにも手伝ってもらいながらTシャツをは
じめいくつかのウェアを制作した。その時初めて環境へのダメージとか商業的な目的だけ
ではない、デザインする事の楽しさ、仕事への喜びを感じ、これが直接今に至るきっかけ
となっているのは言うまでもない。
また、このトム・ラブランクこそが広河隆一をインディアンの聖地であり、また有数のウ
ラン鉱山として、従事する多くのインディアンがヒバクし苦しむ場所に連れて行った案内
人、その人だった!と、知ったのだ。
そしてぼくはその夏、ホピの予言の舞台でもあり、膨大な地下資源採掘による大規模な
環境破壊とそこに住むホピとナバホの住人に対する強制移住で揺れる聖地ビッグマウン
テン
を初めて訪れた。ここでの体験はいままでもいろいろなところで書いてもきたが、
自分の人生を決定的に変える大きな出来事であり、いまでも最も大切にしている体験で
あり場所である。
この講談社DAYS JAPANの時代とその頃の多くの出会い、そして大地と生命の危機の
象徴としてビッグマウンテンでの体験を通して見えてくる、ニッポン列島ヤポネシアの、
祝島(上関)や六カ所村、長良川、諫早湾、辺野古や高江、、、など各地で起きている
ことが、本当にリアルにそしてシンプルに、その問題の本質が見えるのだ。
(続く)

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