RED OR DEAD(1)

1993年大晦日と94年の年明けは、サンフランシスコ近くの友人の家のテレビで、
途中CMが入るから異様に長時間になる紅白歌合戦と日系人向け正月番組で放映
されてた「男はつらいよ」を見ながらすごした。
本当はグレイトフル・デッドのNEW YEAR’S EVEで年を越したかったんだけど、
この年は数日前にショウは終わってしまったから。
’92年の夏からアメリカを旅しながら、いつかはデッド・ショウにも!って思ってた
けど、インディアンのセレモニーやピースウォークなど、そっちにばかり行ってる
うちに、意識してデッドを追いかけたりはしなくなってたから、チャンスがあれば
いつかは、ってそんな感じだった。
20代の頃、日本でよく遊んでいた友達のエイコちゃんが結婚したのは、ビクターと
いう、デッドのギタリストでボーカルもとるボブ・ウィアの父親違いの弟で、そん
な縁もあっていつでもデッドのチケットは手に入りそうな、そんな身近な感じが逆
にデッド体験を遠ざけてたのかもしれない。
’93年暮れに東海岸から南回りでサンタバーバラの友人宅まで帰ってきたぼくとパー
トナーのカオリコは、今年こそはデッドを!と、そのサンフランシスコの友達に電
話した。そしたらもうNEW YEARS EVEは終わったよ、って。でも2月にチャイニー
ズ・ニューイヤーのショウがあるよ!と言うから、じゃあ、そのまま遊びに行って、
お正月から2月のチャイニーズ・ニューイヤーまで、ベイエリアでゆっくりさせても
らおうと再び車を走らせた。
そしていよいよ2月のショウが近づいてきたころ、その同じ日にサンフランシスコ湾
に浮かぶ小島、アルカトラツ島から首都ワシントンD.Cまでアメリカ大陸を横断する
インディアンたちの行進“Walk for Justice”が始まると連絡が入った!  
内心、わぁ〜同じ日か!って思ったけど、この2月11日は1978年に行われた大陸横断
のインディアンたちの行進 ” The Longest Walk “の出発した同じ日で、ここアルカト
ラツ島はその出発した場所でもある。またアルカトラツ島は、かつてはアル・カポネ
も収監された極悪犯罪者の送られる刑務所で、映画パピヨンの舞台ともなったところ。
その刑務所が閉鎖された’60年代半ばに、数人のインディアンが上陸し、ここはインデ
ィアンのもの、と宣言した。そして1969年に再び数十人のインディアンたちが占拠し、
この監獄の跡地を彼らの伝統を学ぶ学校を作るためにインディアンに返還するように
求めた場所で、いわばここからアメリカン・インディアンの権利復興運動が始まった
とされる場所として、彼らの大事な”聖地”となっている。
そんな歴史と連なるここアルカトラツ島から始まる今回の行進”Walk for Justice”は、
ビッグマウンテンやブラックヒルズなど、諸部族のくににおける数々の聖地をめぐる
問題や、いまだ不正にあえぐインディアンの権利に対する不正義を糾すことを祈りす
る行進だ、という。なかでも1976年に2人のFBI殺害容疑で逮捕され、その後様々な
無実の証拠が現れ、国際人権機関アムネスティ・インターナショナルからも釈放要求
が出されているにも関わらず再審も拒否され、そのまま刑務所に収監されつづけてい
るAIMリーダーのレナード・ペルティアの解放が第一に掲げられた。
” Free ! Leonard Peltier Now ! “
こう聞いて、たまたまとは言えサンフランシスコ界隈にいたぼくたちは参加しないは
ずはないだろう。おなじくインディアン問題の大きな象徴であるビッグマウンテンで
サンダンスに参加させてもらってる身とすれば、DEADよりRED!そう当時はデッド
ヘッズじゃなくてレッドヘッズだと(聞かれればこう半分ジョークで)名乗ってたく
らいだからね。それでもちろんデッドのショウは止めてウォークに参加することにし
た。
2月11日早朝、まだ暗いうちに乗り込んだアルカトラツ島行きのフェリーは、もちろ
んウォークの出発に臨むインディアンたちばかりで貸し切り状態。その船の中でも大
きなドラムを響かせAIMソングが鳴り響く。そして到着した島では、このウォークの
提唱者でもあるAIMのリーダー、デニス・バンクスや同じくAIMのリーダーの一人で、
映画ダンス・ウィズ・ウルブスのチーフ役でも有名になったフロイド”レッド・クロー
”ウェスターマンたちをはじめ、見るからに威厳のあるインディアンたちやその家族、
支援者が集まっていた。
そしてインディアン・ウォーカーたちは壇上に上がり、ここから首都ワシントンD.C
まで歩くこのウォークの意義が語られ、ここからワシントンD.Cまで、ウォークを導く
聖なるパイプにタバコを詰めるセレモニーが行われた。
いまだ観光名所として残る刑務所時代の建物には’60年代当時に立てこもったインディ
アンたちの残した” RED POWER “とか描かれた落書きが生々しく残っていた。
なにか歴史的な場所で歴史的な瞬間に立ち会った、と感じた記憶はいまも残っている。
ここには” The Longest Walk “以来、アメリカン・インディアン運動(AIM)や、デニ
ス・バンクスとも親交も深い日本山妙法寺NYグラフトン道場の安田純法尼とそのご縁
の日本からの人もいて、その何人かはよく知る若者たちだった。
そして純さんたちと一緒にウォークが実際に歩き始める場所である、カリフォルニアの
州都サクラメントにある州議会の建物の前まで移動した。
ぼくらはたくさんのインディアンたちに混じり、ここで再びサークルをつくった後、一
路ワシントンD.Cに向けてウォークの一歩を踏み出した。
初日はさすがに参加する人も多く、かなりの隊列とそれに連なるフルサイズのインディ
アン・カーの一団がハイウェイをのし歩く。
先頭には聖なるパイプと鷲の羽のついた聖なる杖(スタッフ)が掲げられ、途中の休
憩や食事場所ではサークルがつくられ、大きなドラムを数人で叩きAIMソングやペル
ティア・ソングが響き渡る。
そんなインディアンたちが多数を占める行進が街を歩きハイウェイを行けば、ハイウ
ェイパトロールの車がサイレンならして出動することもしばしばだ。
道往く車からはピースサインで祝福を贈ってくれることもたくさんあったけど、時々は
中指を立て、あからさまに悪意を投げかけられたこともあったっけ。
その先頭を行くパイプを捧げ持つのは若いインディアンが多く、ほとんど競歩のような
スピードで歩くもんだから、後ろをついていくのは大変だった。
彼らはせいぜい5マイルほど行くとサポートカーに乗った別の若者と交代してそのまま
車に乗り込んで休憩する。だからいつも若いピチピチ連中が競歩のようにウォークを引
っ張った。特に2日目だったか、みなまだ足も馴れてない中、出来かけたマメや筋肉が
痛むのを我慢しながら、先導するパイプに遅れまいと必死でついていった。
だからほとんどの人が途中で悲鳴を上げ、サポートカーに乗り込んで、最後まで歩き通
したのは純庵主さんはじめほとんどぼくら日本人ばかりだった。結局この日は宿泊場所
が遠かったため、40マイル(約65キロ!)も歩いたことになった。
到着したら夜の10時だったなあ。
歩き始めてから数日後、上りの坂道ばかりとなり、そのうちシーダーなどの木々が生え
る山道になった。ここはカリフォルニアとネバダの境にそびえるシェラ・ネバダ山脈で
スキー・リゾートとしても有名なところ。なので上るにつれ、あたりはけっこうな雪に
覆われていた。
その雪景色となった頃、今日は宿泊場所がないので、みんなテントを張って野営だと聞
いた。
もうこのころはだいぶ人数も減ってきてはいたけれど、それでも数十人が針葉樹の森の
中、積もった雪の上で食事をつくり、テントで一晩を過ごした。
これはなかなかワイルドで、ありえないキャンプだった。
翌朝のシェラ・ネバダの美しい山の中でインディアン・ソングを皆で歌ったことなどは
、いまも鮮明に残っている。このころからぼくもシンガーの中に混じって一緒にドラム
を叩き、歌をたくさん覚えていった。この日の夜は、見かねた地元の人が営んでるリゾ
ートロッジに泊めてもらったっけ。そして下りに入った頃だったか、左手に見えてきた
レイク・タホも美しかったなあ。
(この辺りを歩く写真はここで見れます)
http://www.flickr.com/photos/fotowaddle/4489993715/in/photostream/
そしてシェラ・ネバダを下りきった、そのあたりの小さな街にあるWashoe(ワショー)
インディアンの小さな居留地でお世話になった。
ここでレストデイ(休日)を取り、小さいけれど心のこもったPOW WOWで歓迎もし
てもらった。
ぼくらは毎夏、カリフォルニアを出発してアリゾナのホピやナバホのくにに通っていた
し、ニューメキシコなどのデザート(砂漠)の風景には馴れてたつもりだったけど、ネ
バダのそこは、また空気感含めて何か違う風景だった。夏と春先の季節の違いも大きい
とは思うけれど、アリゾナ、ニューメキシコあたりのサウスウェストと決定的に違うの
は山の風景だった。
あのあたりはテーブルマウンテンとかメサと呼ばれる台形状の山だけど、ネバダでは
ギザギザのとんがった山の景色だ。もちろんこれはぼくらが歩いて超えてきたシェラ・
ネバダ山脈もそうなのだが、これが砂漠の風景とマッチして本当に美しかった。
そしてウォークが通った道はメインのハイウェイから外れたローカルな道だったから、
時折止まる小さな街のたたずまいも、どこか時代がゴールドラッシュの頃のまま止ま
った感じで、哀愁もあり、絵になった。
そのうちウォークはウェスターン・ショショーニーのくにに差しかかり、そこで数日お
世話になった。
ここは近くには核爆弾実験場として知られるネバダ・テストサイトがあり、痛めつけら
れたマザー・アースを取り戻そうと、運動を続けるショショーニーの人も多いところで
もあった。
ぼくとパートナーは3月に一時的に日本に帰る予定で、飛行機の予約も取ってあった。
これはビザが切れることと、日本でしばらく滞在し、少しお金も作り、ビザを取り直し
てまた夏のサンダンスからはじまるアメリカの旅に備えるため、毎年この時期には戻る
ようにしていた。なので、あまりウォークが西海岸から遠く東に行かないうちに抜ける
ことしようと考えていたら、ちょうどこのあたりから帰るアメリカ人の若いウォーカ
ーの車に乗っけてもらえることになった。
それで抜ける日までの最後の4日間を、サンダンスに習って4日間断食して歩くことにし
た。
水もほとんど取らず、毎日30マイルほどを歩いたが、やっぱり最後は倒れそうになりな
がらも、なんとか歩き通すことができた。
その終わった4日目の夜、すごくいいタイミングでスェットロッジが行われることになっ
た。ありがたい計らい、いい区切りとなることを喜んでいたら、そこに数人の若いショ
ショーニーのインディアンが現れた。
「近くに住むホーリーマンでおれたちのエルダー、ローリング・サンダーのところから、
このウォークが来ると聞いてやってきた。いまローリング・サンダーは年老いて病のた
めもう歩くことも出来ない。できたら俺たちといっしょに来て彼の傍らで共に祈ってく
れないか」と、そんな申し出があった。
ローリング・サンダー! この名を聞いて僕自身、心静かにおれるはずはない!
かつて’60年代にサンフランシスコ界隈やビッグ・サーあたりに住む、西洋の伝統以外
に目を向けて、東洋思想、先住民文化など、精神的な世界を探求しはじめたアメリカ人
たちに数々の教えと神秘的なインディアンの伝統的呪術を垣間見せた存在としてローリ
ング・サンダーの名前は有名だ。
それはむしろインディアンの世界より、アメリカ人をはじめ非インディアンの中での
方が広く知られており、ボブ・ディランの伝説的なツアー”ローリング・サンダー・レ
ビュー”の名前の由来ともなり、また本人自身、このツアーにも参加している。
またグレイトフル・デッドのメンバーたちとも親交が深く、ドラムのミッキー・ハート
は初っぱなにローリング・サンダーの祈りの雄叫びが入ったレコード、その名も
“Rolling Thunder”を作っているほどだ。
ぼくも北山耕平さんが訳したローリング・サンダーの本を読み、カスタネダのドン・
ファン・シリーズとともにこの世界への強烈な目覚めとなった。それくらいローリン
グ・サンダーの本はインパクトが大きかった。
だからもちろんいつかは旅の途中で偶然を超えた出会いをどこかで期待していたし、
またそんな世界にあこがれてもいたから、この時に、すぐそこに本物のローリング・
サンダーがいる! そして彼のところから、おれたちウォーカーに来てほしいと招待
がある!ってことに内心、興奮した。
たぶんこの時、ローリング・サンダーが年老いたとはいえ元気だったら、迷わずその
申し出に乗っかって一目会いに行っていただろう。デニスも行きたい人は行ってきな
さいって言ってくれてたしね。
でも、そんな偉大なローリング・サンダーではあるが、今は年老いて病に伏せている。
そんな彼を見舞い、そして祈ってほしい、と申し出た若いインディアンたちの本心は
、このウォークの力を少しでも彼に与えてほしい、そしてもし往年のローリング・サ
ンダーのような偉大な神秘の力を持つ聖なる人か、メディスンの道に通じた人がいる
のなら、その力でもって彼の病を少しでも楽にしてほしい、と。
その切実な願いで来ていることくらい、ぼくにもわからないはずはなかった。
だから若いときの物語やレジェンドに惹かれているような、ミーハーな心が少しでも
あるのなら、行っても何の役にもたたないどころか、かえって迷惑になるし、インデ
ィアンの世界でもよく言われるリスペクトの道に外れるだろう。
それならちょうど今夜ここで用意されているスウェット・ロッジのなかで、偉大なロ
ーリング・サンダーのその今の姿と、そして彼らインディアンの人たちすべてに関わ
る、不正義多いこの現実を、それがすこしでも改善されるように真摯にグレート・ス
ピリットに祈ろうではないか。
それこそが唯一、いまの自分にできる精一杯のことだと思った。
翌朝、出発前のサークルの中、デニスはここで離れるぼくらに断食して歩いてくれた
ことへの感謝の言葉をかけてくれた。そしてぼくらは、また夏にウォークを追っかけ
て、みんなと必ず再会すると、一人一人約束のハグを交わして、太陽の昇る方角に歩
いて行くウォーカーたちの美しい後ろ姿を見送った。
(続く)
%2794.jpg
(ウォークを離れるときにデニスからこのウォークのTシャツを作ってほしいと言わ
れてデザインしたもの。これに Free ! Leonard Peltier Now !  Walk for Justice’94
と入れてサンプルのTシャツとステッカーのデザインをつくって日本から送ったが、
残念ながらウォークには間に合わなかった)

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